2024年7月3日
私たちの口から思わず出る「美味しい!」という言葉。その「味」は、いかにして産まれるのでしょうか。
人間の思考を語る時、「左脳と右脳」という言葉をよく聞きます。個人的に思いますに、縄文時代初期の遠い昔から、我が国の祖先たちは主に右脳で物事を考えてきたのはないでしょうか。狩猟民族のように日常的な戦いに晒されていなかったであろう農耕民族は、協力して作業にあたる必要があったでしょうから、相手への思いやりや優しさが不可欠だったのでは。そんな考えから、私たちの祖先は右脳派だった?なんて思うわけです。とは言え、我が国にも最近は争いごとがお好きな方も増えてきたような気もしますけれど。
ある日、評判の良いとあるレストランを訪ねたとしましょう。時期は、桜の花も散り、春の季節が終わろうとし始める5月の終わり頃です。私がレストランに到着すると、黒服のマネージャーがアテンドしてくださるのですが、お迎えの挨拶が素敵すぎました。
「いらっしゃいまし!」
ほとんどの一流レストランなら、命令口調の『いらっしゃいませ』がほとんどなのに。ホスピタリティより、アクイール(accueil)と言った方が正しいニュアンスかも。
さて、注文する料理も決まりましたので、ワインは経験豊かそうなソムリエさんにお任せします。お水は、私が選びました。岩手県釜石市から少し遠野方面に戻ったあたり、JR「陸中大橋」駅からほど近い地に本社を置く釜石鉱山さんの「仙人秘水」。大岩山から湧き出るお水です。
すると、ソムリエさんは、笑顔で「ビアンショワジェ!」。この素敵な一言にとともに供された1本に、私の魂も一気に昂ぶりへと導かれ、気付けば『ウィーン、わが夢の街』を口ずさんでいます。「このワイン美味しいわ!」と、同行のお嬢さんもご機嫌な様子。
そんな空想とともにワインに酔いしれていると、ふと、こんなことを思ったりします。「逆に、拙いワインって存在するのかしら?」。気候に恵まれなかったり、保管方法がよくなかったりすれば、あるいはごく偶にあるかも知れません。あるいは、ワインそのものよりも、いただく際によい条件が整わなかったり。
ん?条件とは何でしょう?たとえば、今、私は都内でも有数の緑に恵まれた港区の有栖川宮記念公園にいます。都心にいることを忘れてしまいそうなほどに豊かな自然は、公園と言うよりも森そのもので、空気が澄み切っています。柔らかな陽光に、さっきまでしょぼしょぼしていた目もスッキリ、若者のようにキラキラと輝いてきます。小鳥たちの囀りに耳を傾けていると、まるでウィーンのシュタッドオペラ劇場にいるような気分に。これが「よい条件」というものです。
そう考えると、ワインも、お料理でも、思わず「美味しい」とつぶやくには、それ単体では成立しないのかもしれません。そこに至るまでには、たくさんの条件が同時に存在しなければならないと思うのです。
背景となるインテリア、テーブルクロスの色やキャンドルライトの形、壁の色や質感。ワイングラスは日によって違いますが、今日ならロブマイヤーでしょうか。流れる音楽、飾られた一枚の絵、ソファーや座椅子のサイズや形状、室内の光や装飾。そして、できればお店のトイレまで行き届く清潔感も欠かせませんよね。
それは、ホスピタリティと言うよりアクイール、思いやりあるおもてなし。条件とは、まるで有栖川宮記念公園に広がる大自然が醸し出す「氣」のような、不思議な魔力のようなものなのかも。ひとことで正確に表現できないのがもどかしいです。
さて、たった一杯のワインをもとに、貴方のアイデアで「最高のおもてなし」を実現するとしたら、それはどんな方法になるでしょうか。どう「美味しい」を作り出しますか?
かつて、「食の科学」は研究するに値しないとされていました。それどころか「科学ですらない」というのが多数派。火を使って肉を焼く時、誰が「火の科学」を理解して、つく焼き色を「科学の知識で理解する」というのか?傷んでしまった鯛を見て、たとえ科学的には鯛であっても、それを食材の鯛だと言えるのか?というわけです。
私たちが子どもの頃には、とてもCuriosity(キュリオシティ=好奇心)が旺盛でした。古今東西、人は一様に知りたがりだったのに、成長とともになぜかそれが薄れていきます。でも、改めて考えてみても、「美味しさ」はとても難しいもの。そんなわけで、ここらでひとつ、いろいろな思いを巡らせてみるのも悪くないのでは。ほら、いま世界ではちょうど「ガストロノミー」「ガストロフイジクス」が流行中のことですし。
再び場所を変えて恐縮です。貴方にチャンスが降ってきて、ウィーンのオペラ座にお席を確保できたとしましょう。素晴らしいその日は、観劇の余韻の味わい方も重要ですよね。お連れの方と近くのホテルに寄って、ナッハシアターデシュやシャンパンをエンジョイしながら、にわか評論家になりますか?それとも、ルイ・ヴィトンの高価なバッグを肩に翻し、頭の中で再上映しながら早めにご帰宅になりますか?どちらが「最高のオペラ座体験」に相応しいのでしょう?
ソファに横たわり、目を閉じて考えます。「完璧とは何か?」「美味しさとは何か?」
料理も音楽も舞台作品も、人によって好みがあります。それは、ワインも同じこと。私たちは「最高のもの」を選びたがりますが、「これが一番」と言い切れるものはないのかもしれません。どれだけ考えてみても出口に至らないのですが、どんな答が出ようとも「食をいただける」という幸福に「有り難う」という言葉を捧げる気持ちだけは生涯忘れたくないものです。だからこそ、いま、改めておんじき(御食)のすべてに感謝を。御食を眼前に、静かに合掌し、五観の偈を唱えたいのです。
一つには 功の多少を計り 彼の来処を量る。
修行先の奈良のお寺さんで厳しく教えていただきました。
「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」 道元禅師より
春と秋の長さが年々短くなっている気もしますが、それでも四季の美しい日本に産まれて、私たちが生かされているこの自然と恵みは、大いなる力になりて溢れています。五観の偈の教えを心に、これからも右脳のさらなる強化を心して、楽しく平和に生きていきたいと思います。
食べ物に感謝して、日々を楽しみましょう。我が国に真のワイン文化が生まれることを祈っています。
働け老いた太陽よ。パンとワインのために。
人を育てよ。大地の乳で。
与えよ、神の忘却が微笑む誠実なるグラスを。
刈り入れた人々よ。
葡萄摘み人達よ。
お前たちの時間は素晴らしい。
Paul Marie Verlaine .
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
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【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
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【51】カスタムナイフの巨匠は、なぜ「栓抜き」を手がけたのか。
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【55】一杯のワインとテディベアが、世界平和に役立ちますように
【56】チリで、フランスで、北海道で。出逢いに導かれた84年。
【57】神話の里、日本一の庭園を擁する美術館への旅。
【58】ワインを愛でる前にそっと心の中で「五観の偈」を思い出してみる
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【61】大都会の静寂の中で思うこと。
【62】1960年代、旅の途中で出会った名言たち
【63】北海道・常呂で出会った縄文土器、注がれていたのは?
【64】ワイン好きならぜひ一度、北海道・仁木町のワイナリーへ
【65】もう二度と出逢えないパリのワイン蔵
【66】訊いて、訊かれて、60年余。「ワインって何?」
【67】もう少し彷徨いましょう。「ワインとは何か?」
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【69】ワインの故郷の歴史と土壌、造り手の想いを知る歓び
【70】葡萄とワインにもきっと通じる?「言葉」の力、大切さ。
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2024年11月29日 発行
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