2023年7月5日
旅の醍醐味をあなたに…な〜んて言うと、ちょっと大袈裟ですね。今回は、1960年代に体験したいくつかの旅と、その道程で出会った今も忘れられない名言について、つらつらと思い起こしてみます。
あれは1962年のこと。その2年後には五輪の開催が決定していた東京は、大きな変貌を遂げようとしていました。世界が華やかな船舶輸送の時代から飛行機の時代へと進もうとする中、私は7年間ほど働いた船会社を退社しました。若気の至りもあり、夢と希望にすべてを投げ打つことに決めたのです。
船乗りとしての最後の目的地となったのはイタリア、シチリア島北西部の街・パレルモの港でした。それまでに体験した航海のほとんどはハワイ経由、南米・北米、そして日本がメインの華やかな航路だったので、地中海の海の碧さには度肝を抜かれたものです。これを最後にあっさりとマドロス稼業から足を洗いましたが、後になって、あの頃の体験がキャリアの楚を築いてくれたのだとたびたび痛感することになります。どんな経験も、人生に無駄なことなどひとつもないですね。
その後、東京は高田馬場にあった東京YMCA国際ホテル学校に入学し、ホテル学のイロハを学びました。この当時、とある先生が仰っていたフレーズが、今も脳裏から離れません。
「空間に宝物を探せ」
この言葉は、その後の人生のあらゆる場面で私を助けてくれました。もちろん、この学校で出会った多くの友人たちも大きな財産です。そして、1964年。私は、東京五輪を機にオープンしたばかりのホテルニューオータニに入社します。
(ホテルニューオータニ)
あれからもうすぐ60年経つなんて、信じられませんね。この1964年を境に、東京はガラリと変わります。国際大会、国際会議など海外からのお客様が一挙に押し寄せるようになりました。私たちホテルスタッフも対応に追われましたが、偶然に出会ったとあるフランス人の紳士の言葉が、その後の人生を決定づけることになります。私個人に限定の名言といったところでしょうか。
「ワインを学びにフランスへ来ないか?」
もう一度、すべてを捨てる覚悟ができた私は、1969年の春、彼を信じてフランスを目指すことになります。その後はしばらく職業=旅人となりましたが、出発時点から明確な目標があったわけではありません。それなのに、シャトーの親父さんの「ワインの勉強に来いよ」とのお誘いをきっかけに、気が付けばハバロフスクからシベリア鉄道に乗る流離いの旅に出たのですから、つくづく若かったなあ、と。
その時々で小さな目的は生まれるにせよ、懐のお金は常に寂しく。当時はまだ外貨割当制度があって、観光渡航では年に一度、500ドルまでの外貨持ち出しが認められていました。たったの18万円の軍資金では何ができるわけでもありませんが、でも、金額なんて考えもしませんでした。何しろ、ワインの故郷へ旅することができるのです。現地に行けば、何とかなるさ、と。
さて、実際の旅程ですが。まず川崎の港からソ連の客船・ナホトカ号に乗り込み、津軽海峡を渡って一路ナホトカへ。中型客船ではかなりの揺れで、乗客の皆さんは誰もが船酔い。私を含めても片手で数えられる人しかいない食堂はお代わり自由で、最高の体験となりました。南米航路の船乗り稼業を7年間も続けたおかげで、船酔いにはめっぽう強く、過去の経験に感謝せずにはいられませんでした。
ナホトカからハバロフスクまでは空路です。初めての飛行機体験は、乗ったと思ったらあっと言う間に到着しちゃいました。そして、ハバロフスクからは鉄道の旅。今度は名ばかりの急行電車で、左右によく揺れると言うか、「揺れ」で片づけてはいけないほどの揺れでした。乗車中は3食、お弁当らしき物がサービスされるのですが、正直「これって食べ物ですか?」と確認せずにはいられなかったり。
残念ながら、どちらも客船のロマンとは雲泥の差。イルクーツク駅では数時間の観光時間がありましたが、なにぶん到着が真夜中ですから暗闇の駅前を彷徨う程度のものとなりました。
(イルクーツク駅)
イルクーツクは、ロシアのシベリア地方南部の州都です。素晴らしい街と聞いていたので楽しみだったのですが、それを実感できる時間には恵まれませんでした。でも、これもひとつの体験ですよね。すべては未来への糧であるとプラス思考にギアを入れ替え、列車はモスクワを目指して進みます。
レニングラードとモスクワで一週間ばかり観光を楽しみ、ポーランドからチェコを越えるとそこは音楽の都、オーストリアのウイーン。色彩で表現するならば「闇から光」の自由の大地といったところでしょうか。
ウィーンのような古き街には、学ぶことがたくさんあります。ただ滞在するだけでも得るものは多いのですが、たとえば聖人・サンマルタン司教の物語を学べば、きっとワイン造りに対して深い愛着が芽生えることでしょう。ちなみに、毎年11月11日が聖マルタンの日とされているのですが、ウイーン名物・ワインの新酒「ホイリゲ」の解禁日もこの日なんですよ。今年も2つの記念日を今から楽しみにしています。
(シュテファン大聖堂/ウィーン)
この古都に着いた私は、すっかり恋してしまいました。街の隅々まで輝かしい過去が存在して、素晴らしい現在があり、そして新しい未来があるのです。一歩奥まった細い裏道にも歴史の香りが漂うこの街には、実際に住んでみたことで、本当に多くのことを学んだ気がします。
そして、この街では、とある著名な御方様からこんな名言も教わりました。旅はまだフランスを目指す途中ですが、私にとってはその後の半生をかけて大切に温めることになった言葉ですので、最後に皆様にもお裾分けいたしましょう。
「真実はワインの中に存在する In Vino Veritas 」
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
【48】木は日本の心、櫛は心を梳かす…秋が深まる中山道の旅。
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【51】カスタムナイフの巨匠は、なぜ「栓抜き」を手がけたのか。
【52】夢の中に御出現! 摩訶不思議な鳥居をめぐる京の旅
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2024年10月25日 発行
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