2022年12月23日
かつて、天台宗の僧侶・酒井雄哉大阿闍梨さんは、「ワインは人と人を繋ぐ飲み物」と教えてくださいました。たった一杯のワインとの絆、一期一会の精神。その摩訶不思議な飲み物は、84年の人生の中で私にとってはなぜか「未だ見ぬ神話の里」であり続けてきた出雲の国へと誘い出してくれました。そんなわけで、今回はワインが導く島根への心豊かな旅路です。
全国が神無月を迎えると、島根は神在月。羽田空港からわずか1時間と少しの空路で、あっという間に「縁結び出雲空港」に到着します。予約しておいたトヨタさんでレンタカーをチャーターし、まずは足立美術館へと向かう宍道湖沿いのルート「神の歩む道」(神迎の道とは違います/自分で勝手に名付けました)を飛ばします。
宍道湖なりに、どこまでも何処までも果てしなく。それにしても、この湖は驚くほど広いのですね。昔の旅人たちはこの道を歩いたはずですが、もしも今この道を歩いたら、いったい何時間かかるのかしら。その後は深い山道に入り、かなり分け入ります。もしかして、道を間違えたかな? 否、ナビはしっかり近道を教えてくれていたようです。
縁結び出雲空港から、車で50分ほど。足立美術館に到着してまず驚いたのは、駐車場の広さ! 周囲は山と田んぼに囲まれています。は〜るば〜る来たぜ安来の里へ〜♪ なんて鼻唄を歌いながら受付に向かうと、館内は驚きの連続でした。
天井が高く、ガラス張りの向こうに広がる大庭園。その美しさ、広さ、豪華さと来たら! 面積は、何と約5万坪にも及ぶそうです。小川や亀鶴の滝の流れ、何処の地から集めたのか意味ありげな無数の石、季節を彩る花々や樹々、遥か彼方の借景の山々。「庭園も又、一幅の絵画である」と言ったのは館の創設者・足立全康(あだちぜんこう)ですが、蓋(けだ)し名言。すべての要素が見事に融け合う素晴らしさには、とにかく度肝を抜かれました。スタッフの方に「庭園ランキングで20年連続の日本一に選ばれているんですよ」と教えていただいて、またびっくり。20年ですって!
足立全康は、明治32年(1899年)2月8日、この美術館のある安来市古川町に生を受けました。安来って、あの『安来節』の? あの「あら、えっさっさ〜」というどじょうすくい愉快な踊りで有名な? その通り、大正期から全国的に有名な民謡ですね。
〽 出雲名物 荷物にならぬ 聞いてお帰り安来節
高い山から谷底見れば 乙女姿のどじょう掬い
出雲八重垣 鏡の池に うつす二人の晴れ姿
この歌は、全国的に広めた立役者である芸達者な渡部糸、そして三味線の名人として名高い富田徳之助の逸話でも有名ですね。安来の港は、江戸後期から明治にかけて隆盛を誇った北前船(きたまえぶね)の重要な寄港地として繁栄を極めました。船乗りたちは、この地で神酒(日本酒)や葡萄酢(葡萄酒)を愛でては安来節を歌い、踊ったそうです。北前船は大阪〜下関〜北海道の西廻りルートを行き来したそうですから、彼らは『佐渡おけさ』や『追分節』の知名度向上にも貢献したのかも知れませんね。
さて、足立は小学校を卒業後、すぐに生家の農業を手伝います。しかし、朝から晩まで働いても報われない両親を見て、「これでは駄目だ」と商売の道へと進みました。14歳の頃には、美術館より少し奥まった広瀬町から安来の港まで約15kmの距離を大八車で木炭を運ぶ仕事に就き、自立します。もしかしたら、あの初代・渡部お糸、あるいは華やかなりし北前船の船乗りたちの魂が足立を揺り動かしたのでしょうか。戦後は、さらに広く商才を発揮していくことになります。
本拠を置いた大阪と安来を行き来した足立は、のちに不動産投資を手掛けるようになり、一代で財産を築きました。昭和22年(1947年)に名古屋で開催された横山大観展に出かけ、大観作の『紅葉』に深い感銘を受けたことを機に、美術品収集の道へ。そして昭和45年(1970年)、71歳の時に財団法人足立美術館を設立します。そんな足立翁の逞しい生き方、人生観に憧れて、今回の旅に出たわけです。
刻々と変化する庭園を眺めていると、一期一会の大切さを痛感します。館は、日本画の巨匠・横山大観の130点に及ぶ作品をはじめ、竹内栖鳳や川井玉堂、富岡鉄斎、榊原紫峰、上村松園などの近代画家や、料理人としても名を馳せた北大路魯山人の陶芸作品、さらには林義雄、武井武雄らの童画も。
この充実の収蔵品に加え、驚きの大地たる5万坪の日本庭園ですからね。日本一の庭は、平成15年(2003年)に米国の日本庭園専門誌が発表したランキングでも、堂々の第1位を記録しています。前述の国内のランキングもそうですが、何しろ桂離宮や二条城、詩仙堂、金閣寺などを抑えての栄冠ですから、それほどの価値があるかが伝わってきます。
そんな足立美術館の美に浸かっていると、不思議と足立全康その人の人間性、経営者としての生き方に興味が深まっていきます。
「人と会う際、必ず備忘録を携帯し、聞きたいこと、知りたい事、相談したいことを予め項目順に書き記しておく」
「酒の付き合いは必ず最初の席で切り上げる」
「資産形成は、現金、土地、株に三分するのが良いとされているが、私の場合は株の代わりに美術品だ」
投資と道楽を兼ねて、近代日本画と陶芸作品の収集に奔走した足立翁。いつまでもそこに掛けて置きたい名画との出会いは、まさに一期一会。それは、人間との出会いと同じですね。
そして、もちろんワインも一期一会。
日本中から出雲に集まった神々も、今はそれぞれにご自身の国へと帰られたこの季節。冬の出雲は、海の幸、山の幸が満ち溢れます。温泉あり、美味き食あり、美味き酒あり。ご訪問の折りには、酒の神様・佐香神社(松尾神社)を訪ねるのもおすすめです。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を(須佐之男命)
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
【48】木は日本の心、櫛は心を梳かす…秋が深まる中山道の旅。
【49】千年後に想いを馳せて、イクアンロー!北海道・阿寒のワイン会。
【50】葡萄が「えび」と呼ばれた時代を偲んで…「本草学」のススメ。
【51】カスタムナイフの巨匠は、なぜ「栓抜き」を手がけたのか。
【52】夢の中に御出現! 摩訶不思議な鳥居をめぐる京の旅
【53】明言、金言、至言…先人の御言葉とともに味わう春のワイン
【54】日本の酒文化のルーツは?古の縄文時代を目指す想像の旅
【55】一杯のワインとテディベアが、世界平和に役立ちますように
【56】チリで、フランスで、北海道で。出逢いに導かれた84年。
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2024年10月25日 発行
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