2021年11月30日
秋深し またぞろ旅に 出たくなり。
晩秋の風の香りに誘われて、気がつけば2号ならぬ「あずさ5号」に乗車していました。今回は、古くからワインの生産地として有名な長野県は塩尻市の「ワイン駅」こと塩尻駅で乗り換え、歌人・島崎藤村になりきって中山道と並走する電車の旅。木曽路はすべて山の中…目的地はまだ先だったのですが、ふと思い立ち、奈良井駅で途中下車しちゃいました。
前回の来訪でお世話になった「ゑちごや旅館」さんは、残念ながらすでに満室。ご紹介いただいた「伊勢屋」さんにたまたま空きがあり、本当に助かりました。こちらの御宿も、夕食・朝食とも絶品の域。驚くほど美味さ、いや、美味すぎて大満足でした。
木曽路は水が豊かに溢れています。まさに山と水の世界で歴史と文化が育まれてきたわけですが、この素晴らしい自然は心優しい人々を育みます。この地にお住まいの皆さんのホスピタリティのなんと豊かなことか。日本のオモテナシ精神にふれて、旅の疲れも自然に癒されていきます。
宿を発ち、いざ鳥居峠へ。途中には有名な鎮神社が鎮座ましますので、まずは参拝を。鳥居峠の頂上からは、信濃の山々が手に掴めるほど近くに望めます。その昔、武田勢も上杉勢もこの峠を行軍し、休息を取り、作戦会議を開いたのでしょうか。謙信公は、新潟県栃尾の油揚げを地酒「壱醸」を楽しんだのでは。となれば信玄公の御食事はほうとう鍋だったかも、葡萄酒は愛でたのかしら。両陣営とも毘沙門様を守り本尊として信じていたのに、何故に戦を…あれこれ想像を巡らすうちに、体力が少しずつ回復していきます。
この緑豊かな大自然の中で、大きめな丸テーブルに真っ白なクロスを敷き詰め、晴れ渡った爽やかな空を仰ぎ見ながら、ロワールの白や安価なフランスの赤ワインなど愛でたらさぞかし幸せだろうなあ。いやいや、このステージならやはり信濃のワインでしょ…と、鳥居峠から木祖村藪原への下り坂を進みます。
今回の旅の一番の目的は、中山道藪原宿に伝わる伝統工芸品「お六櫛」の職人を訪ねること。そして、目的地までたっぷり時間を掛けてそぞろ歩くこと。気の赴くままに彷徨っていると、この小さな木曽路の小さな町に豊かな歴史が渦巻いている空気を実感します。歩き回るほどに「一日でも長く滞在したい」という気分が高まってくるのです。木曽路の宿場町は、いずれも旅人の魂を揺さぶる不思議な魔力が存在するような気がします。
さて、ここ藪原には、どうしてもお目にかかりたいお方が。約半世紀にわたりお六櫛職人ひと筋の匠、篠原武(78才)さんです。
木曽路を旅する人々のお土産品の定番として有名なお六櫛。その歴史は非常に長く、江戸中期の享保年間(1716~1736年)にまで遡れるそうです。美人で評判のお六という娘が頭痛に悩み、御嶽山に願をかけます。お告の通り「みねばり」の木で櫛を作り、髪を梳いたところ、頭痛が治った…という言伝えから、お六櫛と名づけられました。
お六櫛造りでは、現在も「みねばり」「つげ」「柞(いす)」などが当時のままに使われているとのこと。お六櫛にはいくつか種類があるのですが、篠原匠の手による「びんかき櫛」は、まさしく浮世絵の美人画の世界。木の温もりだけでなく、そこには私たちの魂まで宿っているかのようです。
得難い時間を過ごしての別れ際、ひとつ、師匠が御言葉を教えてくださいました。曰く、「木は日本の心、櫛は心を梳かす」。何と素晴らしい銘言でしょうか。
まさにうしろ髪を引き込まれる思いで電車に乗り、私は一人、木曽福島を目指します。木曽福島には長野を代表する有名なお蕎麦屋さんのひとつ「くるまや」さんの本店が、さらには私の大好きな造り酒屋「七笑」さんもあります。
かなり昔の話で恐縮ですが、佐々木久子さんをご存知でしょうか。1960年代半ばの「広島カープを優勝させる会」の旗揚げが有名ですが、お酒の記事を得意とした女性ジャーナリストの大物です。生前の彼女ご自身から紹介された銘酒七笑は、地元では懐かしい故郷の旨酒として人気の模様。
それにしても、七笑とは実に縁起のよい名前。その由来は地名にあるようです。のちに征夷大将軍となる木曾義仲がまだ駒王丸と呼ばれていた幼少のみぎり、父・源義賢の大蔵合戦での討死を受けて武蔵国から逃れた先が、木曽川の源流・木曽駒高原の山奥。そこに七笑という地籍が実在した…というのですが、定かではないそうです。
さて、木曽福島での宿泊先「街道浪漫 おん宿蔦屋」さんも、実に印象的な御宿でした。と言うのも、俳人・種田山頭火の有名なあの歌そのものといった風情なのです。「良い宿で どちらも山で 前は酒屋で」。そう、旧中山道を挟んだ対面が、まさしく七笑酒造さん。若女将に伺ったところ、山頭火は訪ねていないようなのですが、これは想像を巡らせますよね。時間が許せば、木曽福島から少し入った開田高原を歩いてみたいところでした。無になって般若心経を声を大にして唱えながら…。
心の面での収穫も多かった晩秋の旅。最後に、ホンダの元副社長・藤澤武夫さんが生前によく語ってくださった言葉をご紹介します。
「過去は振り返らず、三歩先を見つめ、二歩先を語り、一歩先を照らす」
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
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2024年10月25日 発行
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