2020年1月31日
1970年代の初頭から、私は4年ほど欧州に滞在していました。もちろんワインとその周辺を学ぶことが目的でしたが、もうひとつ、サービスの一時代を世界に示したアルベール・ブラゼールに少しでも近づけたらという想いもありました。
ハプスブルグ家の歴史やドイツワインの神秘に触れたあと、フランクフルト駅から夜汽車に揺られて憧れの巴里へ。心持ちよく揺れる夜汽車の中、「さぁ、明日から俺もParisienだぞ」と期待に胸も膨らみます。季節は暑い夏の早朝、パリ西駅に到着。友人がシトロエンDSで迎えに来てくれました。ウィーンで見た「パリは燃えているか」のシーンを思い出しながら街の景色を眺めましたが、花の都のイメージは湧かず。汚れた道路を清掃車がものすごい水の量で綺麗にしていたことが、今も記憶に残っています。
「今日は夕方まで爆睡しなよ」という友人のアドバイス通り、ホテルのベッドで深い眠りに。当時はまだ若く、旅の疲れもすぐに吹き飛びます。午後6時に友人の電話で目が覚めた私は、「今晩8時にロワイヤル通り3番地で待っている」と告げられます。指定場所は、とある建物の前。そこはパリ8区のマドレーヌ地区、誰もが一度は訪ねてみたいと夢見る神秘的なレストランがありました。
そのレストラン、即ち「マキシム」の歴史は、1893年4月7日に始まります。17世紀にはアカデミー・フランセーズの創設者であるリシュリュー枢機卿が所有していた建物で、19世紀末にイタリアのイモーダ家がアイスクリームを売り物にした店を開店。1890年7月14日、バスチーユの牢獄が破られた日の記念日に、何の気まぐれか、店をドイツ国旗で飾り立てたイモーダはパリの人々を激怒させ、ボイコット騒動を引き起こした末に閉店。この店を引き取ったのが、同じロワイヤル通りの23番地にあったBar「ル・レイノルズ」で、当時ギャルソンとして働いていたマキシム・ガイヤールと彼の友人ジョルジュ・エヴラールでした。
1893年、2人は共同で「マキシム・ジョルジュ(Maxim’ s et Georg’s)」というカフェ兼アイスクリーム屋をオープン。野心はあるがお金がなかった彼らは、近所の肉屋や酒屋、シャンパーニュのセールスマンらの助けを借り、どうにか資金を集めて賃借契約の締結に漕ぎ着けました。その契約内容が一風変わっていて、「借地内でなんらかのトラブルを起こすことなく、平和に清潔に過ごすこと」という条件が付いていたそうです。
2万ドルにも迫る経費を装飾に費やし、開店翌年には4万ドル近い借金の山に埋もれましたが、そこから奇蹟が始まります。当時プレイボーイとして鳴らしたムッシュー・アーノルド・ド・コンタンドが店を気に入り、多数の上客を紹介。そのおかげでマキシム・ガイヤールは成功の道を歩みますが、それを祝う間もなく、1895年1月25日にガイヤールが死去。店を譲り受けていた忠実な支配人者ウジューヌ・コルニューシェが辣腕を発揮。当時のマキシムをよく知る人々をして「マキシム(ガイヤール)は死んだがマキシム(レストラン)は生き残った」と言わしめるほどの人気を博します。
現在も残るあの素晴らしい内装の原型は、コルニューシェのアイデアから生まれたといっても過言ではありません。しかし、この時代のマキシムは、後のマキシムとはまったく異なる顔を持っていました。王侯貴族や当時のエリート、そしてクルチザンヌ(Courtisane)」「ココット(Cocotte)」「オテロ(Otero)」と呼ばれた女性たちが集うサロン的なレストラン。ベル・エポックのよき時代、享楽の一時代を象徴する場として、大いに持て囃される存在でした。
オテロの女性
1934年、マキシムの新しい時代が始まります。経営を根本的に変え、過去の栄光の灰の中から生まれ変わるたびに美しくなっていくフェニックスのように生まれ変わりますが、この劇的な進化には「奇蹟の主」の存在がありました。前置きが長くなりましたが、この人物こそは今回のコラムの主人公、「私たちのアルベール」その人です。
1930年代のマキシムを支えた世界で最も有名なメエトル・ドテルのひとりであるアルベール・ブラゼールは、1934年に迎えられました。雇い主は、その2年前にマキシムのオーナーとなっていたオーヴェルニュのレストラン経営者、オクターヴ・ヴォーダブル。「レストランは人にあり」と考えた彼が雇い入れたアルベールですが、むしろアルベールの方が自身の才能をマキシムに与えることになった…と、私は考えています。
アルベール・ブラゼール
アルベールは、恐怖と厳しさによってマキシムを変えました。大戦前の頼りにならない常連を容赦なく追い出し、「低俗」と解せるすべての要素を店から取り除いていきます。マキシムに相応しくないと判断された客は、アルベールの冷たく傲慢な態度に憤慨し、2度と足を運ぶことはありませんでした。上品な名士や資産家たちの信頼を集める一方、アルベールは従業員にも鉄の規律を課しました。完璧なサービス態度、そして高度な効率化。この大改革によって、世界に轟くマキシムの栄光の歴史が始まったのです。
マキシムの蔵に完璧なまでに保存されているワインと、父・オクターヴの理念を継ぎアルベールイズムを完全に根付かせたルイ・ヴォーダブル氏の眼力。いずれも「神」を感じずにはいられませんが、そのアルベール自身は、日本人客で最もマキシムを知るバロン薩摩こと薩摩治郎八氏を指して「今世紀最高のワイン大使閣下」と呼んだそうです。始まりがあり、終わりを迎えて、新たに継がれる。紆余曲折、虚実混交の世紀の名店に想いを馳せながら、今日もまた、グラスを傾けるのです。
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
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2024年10月25日 発行
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