2022年3月25日
我が流離の旅日記も、お陰様で50回を超えることができました。お付き合いくださっている皆様方、誠にありがとうございます。記念すべき節目ということで、何を書きましょうか。こんな時には旅に出るに限るのですが、今回は取材先を選び出すのが大変でした。あのお方に、いやこのお方も…と、素敵過ぎる候補者が多数いらっしゃって、なかなか絞り込むことができず。
思えば、ずいぶん長くソムリエの仕事に携わってきたなあ…と振り返った時、ふとこのお方にお逢いしたくなりました。物語を書きたい時、ストーリーを思い浮かべる時は、まずタイトルが必要です。旅のテーマや目的地を決めるのもよし、いつものように気の向くままのぶらり旅もよいのですが、今回はソムリエ活動の中で個人的に抱えてきた「謎」にチャレンジです。
では、出かけましょうか。我慢できずに新幹線に飛び乗って、車窓から霊峰富士を眺めながら、沼津に差し掛かる頃には若山牧水の歌が脳裏を翳めます。
「草深き 富士の裾野を 行く汽車の その食堂の朝の葡萄酒」
「このごろの 寂しきひとに 強ひむとて 葡萄の酒をもとめ来にけり」
「海岸の 松青き村は うらがなし 君にすすめむ 葡萄酒の無し」
牧水は国酒(日本酒)はもちろんのこと、葡萄酒もこよなく愛したと語られていますね。聞く話によると、牧水と酒の密な関係は大失恋から始まったとか。
「しらたまの歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけれ」
晩年は、酒宴のような賑やかな席よりも、まさにたしなむような「綺麗な酒」を好んだようです。これは真似してみたいな、ということで彼の小雑誌『酒のうた』を読み耽っていたら、あっと言うまに名古屋駅に到着。ここから乗り換えて岐阜県は関の町へ向かいますが、かなり距離がありそう。乗り換えと言えば、友人の演歌歌手・こおり健太の最新曲が『乗換駅』というタイトルです。女心を切なく歌った曲で、おすすめです。
♪ほんのひと駅 ふた駅の 短い旅で いいのです
別れが辛く なるくせに わがまま言って 先延ばし
乗換駅へ 着いたなら 無理を言わずに 戻ります
点と点をつなぐ飛行機とは違い、列車の旅は線と線。欧州滞在時代も鉄道や航路の旅が多かったのですが、私としては飛行機の旅よりも好みです。
そんなわけで、まずは美濃太田駅を目指します。27歳の夏の暑い日に、2日ばかり美濃太田のお寺さんでお世話になったことがありまして。若い禅僧に鮎の塩焼きをご馳走になった想い出が蘇ってきます。殺生ではなく、「ありがとうございます」と合掌してから戴きなさい、と。その美濃太田でさらに乗り換え、今度は長良川鉄道で。関市には30分ほどで到着です。さあ、いよいよあのお方にお逢いできるぞ…と思うと、小躍りすると言うよりも、身が引き締まります。
関と言えば刃物の町。ワインの世界で刃物と言えば、ボトルのコルク栓を抜く栓抜き、ソムリエナイフが思い浮かびますね。フランスではTire Bouchonと呼ばれていますが、わが国を代表するカスタムナイフ造りの第一人者である原幸治氏が、機能的にも芸術的にも最高峰と言ってよいソムリエナイフを手がけておられるのです。
写真上はエレファント・下はクレイジーバッファロー
名実ともに世界的な匠として知られる原幸治さんが、ソムリエナイフに興味を示された理由は?その秘密に触れたくて、今回は片道約400キロを超える距離を旅してきました。
私たちソムリエの相棒であるワインの栓抜き。今から60年ほど前、私は高品質なソムリエナイフを探しに上野のアメ横を彷徨い歩いていました。見つけたのは、ドイツのゾーリンゲンの街にあるツヴァイリングJ.Pヘンケル社の製品。お値段を見てびっくり、何と5,000円もしました。当時私の給料は13,000円でしたから、今で言うとどれほどの金額になるでしょうか。
あれから半世紀以上が過ぎた今、関の街に着き、名匠・原幸治さんの工房を訪ねます。1949年、佐賀県は伊万里市に生を受けた原さんは、16歳の時に関市に移住。こちらも刃物の世界では著名な企業であるGサカイなどで経験を積み、1988年に「ナイフハウスハラ」という工房を立ち上げ、カスタムナイフメーカーの道を歩まれます。
独立して30余年、世界中のカスタムナイフショーで多数の賞に輝いておられますが、当初は失敗の連続だったとか。ナイフの神様とも呼ばれるR.W.ラブレスに憧れ、1994年に初めてアメリカのナイフショーに出かけますが、そこで米国人の刀工がつくった日本刀を見て「コピーではなく自分自身のオリジナルを創らなくては駄目だ」と痛感。そこから試行錯誤を繰り返し、自作の「エアーステップ」の大ヒットによってカスタムナイフメーカーとして軌道に乗ったそうです。
お話を伺っていましたら、世界的な名声を獲得するまでに歩んだ苦しかった時代の想い出が掠めたのでしょうか、時折り涙に咽びながら貴重なエピソードの数々を聞かせてくださいました。あの「Koji.H」は、なぜソムリエナイフを手がけたのか。その謎を解き明かす今回の旅は、匠ご自身の明快な言葉で一気に解決しました。曰く、ワインが、ソムリエが大好きとのこと。今までの経験を生かして、世界最強のソムリエナイフを造ってみたかったのだそうです。
座右の銘は、「一所懸命」。現代のカスタムナイフ界の神様的存在の名匠から直接伺った重みのある言葉を、連載50回超えの記念として、皆様にも。
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
【48】木は日本の心、櫛は心を梳かす…秋が深まる中山道の旅。
【49】千年後に想いを馳せて、イクアンロー!北海道・阿寒のワイン会。
【50】葡萄が「えび」と呼ばれた時代を偲んで…「本草学」のススメ。
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2024年10月25日 発行
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