2021年10月29日
「一杯のワインの中には億萬の書物よりも多くの哲学が含まれている」という名台詞を残したのは、フランスの生化学者・細菌学者ルイ・パスツール。その言葉通り、ワインには私たちの人生を大きく変えるほどの力が宿っているのかも知れません。あなたも、そんなパワーをお感じになったことはありませんでしょうか。
たとえばある日、愛しい人とともにワインを愛でていたとしましょう。深く味わうために目を閉じて、再び開くと、そこにはいつも以上に魅力的なパートナーの笑顔がありませんか。輝きを感じた喜び、生きる喜び、歓喜と充足に浸る瞬間。私自身、たった一杯のワインから人生のすべてが180度、いや360度以上ひっくり返り、まったく様変わりしてしまいました。驚くべきことに、今も少しずつ五感(五観)で幸福を味わっています。
たかがワイン、されど深海のように深く掴めきれない飲み物なり。ユーラシア文明発祥の地、チグリス・ユーフラテス河川あたりが、私たちに永遠なるワイン文化の祖を与えてくれたルーツであるようです。旧約聖書「創世記」では大洪水にまつわるノアの方舟の物語に登場し、古代メソポタミアの文学作品「ギルガメシュ叙事詩」の中にもワインの文学ウィヤナ(Wiyana)が記されています。
私たちを招き込むワイン、神秘なるワインの世界は、あまりにも奥が深過ぎます。だからこそ、世界中の偉人たちの多くがワインを讃える銘言を残しています。「私がシャンパンを飲むのはふたつの時だけ、恋をしている時と、していない時」とは、ココ・シャネルの言葉とか。「もしも世界中の砂漠が葡萄畑に変わったら、世界から戦争という醜い言葉が消え去ると信じます」と断じた人さえいますが、私もまったくの同感です。
では、ワインの神秘性は、いったいどこに息づいているのでしょうか。一本の葡萄樹は、神を信じ、気候風土に忠実に生き、自然を愛し、創り人を信じ、樽の力を借りて発酵と呼ばれる奇跡の道を歩きます。やがて熟成を重ね時を経て私たちを歓喜の時に導いてくれるわけですが、この過程のすべてが醍醐味であるだけに、言葉で表現することは困難。たとえば、アッサンブラージュ(ブレンド技術)のテクニックを「芸術以上だ」と讃美したフランスの画聖ベルナール・カトランなら、どんな表現を使うのだろう…と想像を巡らせるのも楽しいものです。
我が国のワイン人口が伸びているのか、私も仕事柄、愛好家の皆様とワイン談義を楽しむ機会が多々あります。ロマネコンティや五大シャトーなどがよく話題に上がりますが、日常的に味わっているはずのテーブルワインのお話は、残念ながら皆無に近かったりします。ワインの世界は、芸術的ワインを頂点にピラミッド型に広がっていますが、日常的に消費するワインはあまり語られません。
「アボンダンス(Abondance)」という言葉をご存知でしょうか。安ワインを水で割って飲む習慣ですが、これがもっと日本で流行・浸透すれば、ワインの消費量はきっと今より伸びるはず。アボンダンスから始めて、ワインのタイプを変えながら深遠なる世界へと分け入れば、いつか芸術的なワインへと辿りつくもの。いきなり高級なワインではなく、焦らず、ワイングラスの選定に情熱を注ぎながら…。そんなスタイルも楽しいものです。
先日、さるお方から、方位学についてのお話を伺いました。曰く、南は夏を表現して赤い色でつまり火性なり、南は火で焼き赤ワインの方角なり。西は金性で白色を表現しているそうです。秋が深まる季節なら、秋刀魚や落ち鮎、黄金鯵を肴に「ワインと方位学」を調べてみるのも面白そうですね。
東西南北は、明という文字で語られる陰と陽の関係に存在するのかも。方角ごとに個性の違う葡萄畑が存在するなら、どの葡萄たちが熟成のワインに適しているのか、はたまた果汁100%の新鮮なジュースに適しているのか。得手・不得手は確かに存在するはずですので、方位学にじっくり向き合えば、葡萄を育てる最大の条件である気候風土の重要性をまた別の角度から学ぶ機会になるかも知れません。
イタリアには「一樽のワインが聖人だらけの教会よりも、はるかに多くの奇跡をもたらす」という諺があります。「この世で最も洗練されたものを持つのがワインだ」と語ったのは、かのアーネスト・ヘミングウェイ。もちろん、シェイクスピアもワインへの讃辞を残しています。「良きワインは2つの美徳を持つ。ワインは脳に上り、鋭敏で活発で、そして抜け目ない分別を持たせ、2番目の美徳は、血を再び焼き立たせる。ワインこそ、雄々しさからもたらされたものである」。
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
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2024年10月25日 発行
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