2018年9月27日
平成30年北海道胆振東部地震の被害に遭われた皆様に心よりお見舞いを申しあげます。
私は、個人的に北海道が大好きです。北の大地……なんとロマンに溢れる枕詞なのでしょう。そんな地を襲った大型地震には、本当にショックを受けました。一日も早い復興を願うと同時に、自分に何ができるだろうと考えつつ、まずは北海道の歴史に想いを馳せたのです。
明治2年(1869)、蝦夷地と呼ばれていたこの北の大地は、開拓使の設置に伴って名称の変更が検討されました。その結果、同年8月15日、この地は「北海道」と名づけられます。この名称には、とある探検家の想いが込められていました。
皆様は「松浦武四郎」をご存知でしょうか。彼こそは、150年前に北海道と命名したその人と言っても過言ではありません。後に明治政府で活躍する武四郎は、弘化2年(1844)に初めてその大地を踏みしめますが、以降13年間で6度にわたって調査の旅を敢行したそうです。
このあたりの詳細は、後段に譲りましょう。私といたしましては、歴史上の人物を調べたい時は、まず生誕地を訪ねることにしております。というわけで、先日、私は近鉄「伊勢中川」駅前に赴きました。
東京から430km、小雨が降る日でした。嬉野タクシーに連絡し、待つこと5分ほど。人のよさそうな運転手さんに、「松浦武四郎記念館」までお願いしました。
到着すると、中野恭館長が応対してくださいました。現在、同館並びに小野江コミュニティーセンターの館長を務められておられる方で、伊勢松坂周辺の歴史から松浦武四郎の生い立ちについて、一時間以上にわたり貴重なお話をうかがうことができました。まずはこの場をお借りしまして、改めて御礼を申し上げます。
さて、こちらは松浦武四郎の日本各地での行動を知るには重要な拠点となる記念館です。館内に入ると、まず武四郎が6回の蝦夷調査の末に完成させた「東西蝦夷山川地理取調図」があり、いきなり驚かされます。蝦夷地の調査記録は、諸々で実に220冊を超えるとのこと。ちなみに、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・河鍋暁斎の「北海道人樹下午睡図」(武四郎からの依頼を受けて制作した涅槃図)には、武四郎本人の愛玩していたコレクションの数々が描き込まれています。真面目一辺倒ではなく、なかなかユニークな方だったようで。
蒲生氏郷が築いた松阪城の石垣がシンボルの三重県松阪市は、人口16万4千人のまち。あの松阪牛の生産地としてお馴染みですね。本居宣長、三井高年らを輩出したこの地は、松浦武四郎の生誕地でもあります。屋号「新宅」と呼ばれる松浦武四郎の生誕地は、記念館のすぐ近く。新宅ですから、もちろん「本家」もあります。武四郎の本家は、薬の調合などをして販売していたそうです。
生誕地の前の道は、伊勢街道。南に行けば伊勢神宮へと向かう、古くから多くの「おかげ参り」の旅人が行き交った道でした。当時は旅籠がかなりあったらしいですね。武四郎は、この新宅で1818年3月12日に生まれました。庄屋を営む比較的裕福な松浦家の四男として生まれた彼は、7才から寺子屋に通って読み書きの勉強をしたそうです。
もうお気付きですよね。今年は、松浦武四郎の生誕200年という節目の年なのです。
生家にほど近い曹洞宗派の真覚寺には、彼が学んだ寺子屋がありました。師である来応禅師は、若い頃に34余国を放浪し、縁あって真覚寺の住職になったとか。知らない土地を旅する……もしかしたら、武四郎もおおいに影響を受けたのかもしれませんね。
寺子屋で学んだ武四郎は、さらに学問の道に分け入ります。13才で津の儒教学者、平松楽斎に高等教育を学びました。彼は「本草学」に興味を示したようで、この学問が後にアイヌの人々とともに道なき道を歩む際に役立ったらしいです。木の芽や茸などを糧に、案内役の人が病に倒れた時などにも、その知識をフルに活かしたのでしょう。なお、古銭などに興味を示したのも、平松楽斎先生の影響だったようです。
武四郎が影響を受けた一人に、竹川竹斎がいます。櫛田川の上流に射和(いさわ)という村があるのですが、この近くの丹生(にう)という地区は、いわゆる伊勢白粉で財を成した松阪商人発祥の地とのこと。竹斎は、射和で豪商として知られた竹川家の七代目当主で、商売はほとんど番頭に任せて学問の探求に勤しんだ人です。なお、武四郎は竹斎に「神足歩行術」を学んでいます。もとは伊賀流忍者の術なのでしょうか、武四郎は晩年も歩きが早かったそうです。
武四郎は、16才で実家に内緒で旅に出ます。17才の時には、今度は両親の承諾を受けて旅立ちました。当時は電車やバスの無い時代ですから、歩くか、舟を利用するか。野宿も当たり前の時代でしたが、江戸に居を置き、全国を旅して廻ります。26才で日本海側を歩き、27才で津軽は鯵ヶ沢へ。そして28才で北の大地に辿り着くわけです。
彼は、樺太や択捉島を含めて探索に精を出し、測量に従事しながら蝦夷地を旅します。アイヌの人々にも非常に慕われていたらしいので、きっと積極的に交流したのでしょう。
彼の生家の近くでは、床屋さんに入りました。すでに営業していなかったのですが、ここでもお話を聞かせていただくことができました。松浦家の本家筋、97才になる方にうかがった一時間半ほどのお話は、この旅でも屈指の楽しい時間となりました。
武四郎は四人きょうだいの末っ子で頭脳明晰、活発で皆から可愛がられたそうです。身体は小柄でしたが相当な酒豪だったと聞いて、さらに親近感が。今の時代に生きていたら、北海道のワインを愛してくれたことでしょう。
武四郎は、政府から蝦夷の地名をどうするかという相談を受けた際、アイヌの人々への敬意を胸にいくつかの候補を挙げます。そのひとつが「北加伊道」というものでした。最終的に「北海道」に落ち着きますが、冒頭の通り、事実上、武四郎の命名と言っても差し支えないでしょう。
地震直後の混乱が落ち着き始めているのでしょうか、民間でも復興支援のプロジェクトなどが活発になっているようですね。今年の夏は暑かっただけに、この時期の北海道はきっと素晴らしいひとときを提供してくれることでしょう。美味しいワインが、さらに深々と愉しめそうです。
さあ、皆さん、北の大地へ。お出かけの際は、北海道のおもてなしのキーワードであり、またアイヌ語の「こんにちは」にあたるこの言葉を覚えておきましょう。
イランカラプテ(あなたの心にそっと触れさせてください)。
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
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2024年10月25日 発行
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