2022年11月9日
齢八十四、まだまだ若い(!)私が過去を振り返るなんて早過ぎる(?)気もしますが、これまでの人生においては「出逢いの不思議」に何度も驚かされて来ました。そもそも生まれた瞬間からして、「この世」との出逢いですからね。オギャーと叫んだ第一声が、まずは最初のご挨拶。あの声は言葉かしら、それともやはり泣き声でしょうか。
フランスの片田舎・ロワール地方はVoubreyの街に住んでいた頃、嘘かまことか、下宿先のおばちゃんが教えてくれました。ロワールの子どもたちは、「呑みたい、飲みたーい」「Vouloir Boire」という言葉を発しながら生まれて来るのだとか。
出逢いと言えば、個人的にまず思い浮かぶのは、南米チリの港町の風景。もちろん、ワインと邂逅を果たしたシーンです。チリ産のワインは今でこそ「安くて美味しい」の代名詞にして見本のような存在ですが、64年前の私にとっては未知の飲み物。生まれて初めて体験したお酒は、グラスに注がれた一杯のヴィノテイント(赤ワイン)でした。スペインからチリに持ち込まれたパイス(pais)種という赤葡萄品種から造られた名もなき赤ワインでしたが、この時の出逢いは今も忘れられません。口にした第一印象は、「俺は生きている、俺は生きているぞ!」でした。
普通の人が初めてワインを飲んだら、「酢っぱい」「渋い」「美味しい」「まろやか」なんて言葉が語られると思います。私にとって最初のワインは、まさに生の喜びそのものだったのです。
横浜港を出帆してチリのバルパライソ港へ、20日以上をかけての航海。極端に長期間というわけではないのですが、見習い船員の私にとっては苛酷で厳しく、苦しくて長い旅でした。毎日が失敗に継ぐ失敗の連続で、荒れ果てた太平洋に船酔いも酷く、とにかく死に物狂いの日々でした。
船乗りになるために国立の専門学校まで卒業したというのに、やることなすことすべて失敗。とにかく先輩方にお詫びして、南米に着いたらすぐに逃げようと真剣に考えたくらいです。散々な目に遭い、心身ともに疲れ果て、ようやく目的地の港に入港します。
到着すると、航海中はまるで鬼のように思われた先輩方が労ってくださり、すぐ近くのビニャ デル マールのレストランに連れていっていただきました。この時にいただいたワイン、ただ一杯のワインで、私のその後の人生は大きく変わることになります。
グラスに注がれたその液体の中には、まさに明るい未来がはっきりと見えました。そのワインは、私に勇気と未来を与えてくれたのです。港の彼方に沈む太陽、真っ赤なサンセット。あの時、すべてはワイングラスの中で輝いていました。ワインの知識などまったくのゼロだった私に、生きる喜びを享受してくださったわけです。
人生って、不思議なものですね。この84年を振り返ると、あの日の出逢いを境に、まさにワインに導かれた日々だったことを実感します。その後の私は、本当にワイン一色でした。今も掲げたグラスの先には「ワイン神社」こと仁木神社がありますし、そのはるか向こうにはフランスの黄金の斜面と呼ばれるブルゴーニュの大地が、さらに彼方には夢の大地チリのバルパライソの港町が見えるのです。
ソムリエ像の彼方に仁木神社がある。仁木を尋ねた際には是非ワイン神社をご参拝くださいませ。
「千萬の書物よりも一杯のワインの中に哲学がある」とは、近代細菌学の父と讃えられる、かのルイ・パスツール先生の言葉。名言に出逢って魂を揺さぶられた私は、この一行の中にワインのすべてが隠されていると信じています。ところが、「ワインは自分には難しい」と仰る方の何と多いことか。いや、「ワインは楽しい」というテーマの本でも、2ページ目からは難しい知識で埋め尽くされているのですから、無理もないのかも知れません。
先日、ある航空会社の機内誌に眼を奪われました。「ワインを、それが生まれた土地で飲む歓び」という主旨で、北海道の余市町、そしてお隣りの我が仁木町のワイナリーの取材記事でした。タイトルは、『北海道 余市 見出されたテロワール』。
テロワール(Terroir)とは、もともと土地を意味するフランス語(terre)から派生した言葉です。農産物などの品種に於ける生育地の地理や地勢、気候による特徴を意味する単語で、生産地の特性、ワインなら葡萄樹を取り巻く環境すべてを指すと捉えればよいでしょう。
仁木ヒルズワイナリーの土壌の一部
ワイン用の葡萄は、自分自身が住みやすい気候風土を選びます。生食用の葡萄はどこでも栽培可能なのですが、ワインにするための葡萄は昔から適地適品種と語られるように、自らが育ちやすい最高の土を必要とするのです。その意味で、sol terre(土壌)はまさしく原点なのかも知れません。
仁木ヒルズワイナリーのシャルドネ
フランスのブルゴーニュ付近の歴史を紐解くと、ベネデクト派やシトー派の学識や経験を持った聖職者たちが、何世紀にも渡ってブルゴーニュワインを研鑽し、葡萄を栽培してきたことが分かります。かつて現地を訪ねた時、そこで出逢った生産者の方から、畑の土を手の平に乗せて「Boila !」と言われたことがあります。さあ、土を舐めてごらん! と。
最初はドギマギしましたが、エイままよと舐めて以来、ワインの産地を訪ね歩いては土を舐めるのが癖になってしまいました(笑)。どんな風味だったかと訊かれても答えにくいのですが、何となくフランス人の言うテロワールの意味が分かったような気がしたものです。
さて、記事の舞台となった余市は、仁木とともにフルーツ王国と呼ばれます。札幌から高速道路で1時間と掛からない両町では、葡萄や林檎、ミニトマトをはじめ多くの果物が生産されています。なぜそれほど豊かな実りに恵まれるのか? その背景には、この地のテロワールが関係しているようです。
周辺の土地には、ゼオライトという特殊な石が土壌深く存在すると言われています。火山活動によって降り積もった火山灰が長い年月の地殻変動によって生成されたアルミノ珪酸鉱物の総称で、結晶中に空洞を数多く持つ多孔質の物質です。環境浄化にも大きな役割を果たすとされていますので、気候風土とともに、この鉱物も仁木・余市の「王国の繁栄」を支えているのではないかと考えられています。
仁木ヒルズワイナリーの裏山に存在するゼオライト山
そんなわけで、今夜もテロワールに乾杯しましょう! Allez Vibe Le Terroir‼
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
【48】木は日本の心、櫛は心を梳かす…秋が深まる中山道の旅。
【49】千年後に想いを馳せて、イクアンロー!北海道・阿寒のワイン会。
【50】葡萄が「えび」と呼ばれた時代を偲んで…「本草学」のススメ。
【51】カスタムナイフの巨匠は、なぜ「栓抜き」を手がけたのか。
【52】夢の中に御出現! 摩訶不思議な鳥居をめぐる京の旅
【53】明言、金言、至言…先人の御言葉とともに味わう春のワイン
【54】日本の酒文化のルーツは?古の縄文時代を目指す想像の旅
【55】一杯のワインとテディベアが、世界平和に役立ちますように
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2024年10月25日 発行
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